還暦からの出発

日々の出来事と経済の動きを語る。花とカメラ、PCについての情報も。

西行

西行と桜

「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
(旧暦2月の満月の頃、釈迦が入寂したその季節に桜の下で死にたい)
余りにも有名な西行法師の辞世の句です。

西行法師は1190年(建久元年)2月16日(新暦では3月下旬)、この句のとおり73歳で亡くなりました。  西行の死をめぐっては色々な学者、研究者、宗教家などが色々な観点から調査をして発表しています。

今朝の日経新聞も「美の美」のページを大きく割いて西行の最期をめぐって内田洋一氏が素晴らしい文章を書いています。

私にとっても感慨深いのは1992年5月11日に父が、2005年5月4日に母が亡くなったときのことをいつも桜と共に思い出すからです。  父は胃がんで闘病中、いわば医療ミスでなくなったのですが、父を病院に見舞ったとき、桜が咲いていた風景が強く心の中に残っています。

好きな酒を制限して摂生に努めていたにもかかわらず、スキルス性の胃がんが見つかり、手術が元で亡くなりました。 色々な管をつけたまま何もいえないままで病院で亡くなったために、もう少し何とかできなかったのかと激しい後悔に見舞われました。

母も直腸がんが脳に転移して亡くなりました。 意識がなくなってから何度か病院に見舞いに行った時に、遅い桜が山を彩っていた風景を思い出します。
母の場合は90歳を過ぎていたこともあり、また脳に腫瘍が転移していわば眠るように亡くなったのであまり後悔の念は沸きませんでしたが、後で味わった悲しみと喪失感はより強いものがありました。

私の故郷でも最近は桜の花が咲くのは早くなりましたが、それでも桜の花が咲くのは東京に比べて2週間くらいは遅くなります。 ふるさとではソメイヨシノは学校以外では余り植えられておらず、近所にあるのは八重桜が多かったのです。

八重桜が咲くのが丁度4月から5月の連休の頃でしたので、両親が亡くなったのはちょうど八重桜が満開だった頃になります。

評論家「吉本隆明」氏は「西行論」で「風に吹きさらされて、一夜のうちにたちまち花びらを散らし、花びらが雪の積もるように地上に積もる有様を浄土の姿に見たたたように思える」Chery-2と書いています。

 

 

 

 

 

 

 

この写真は昨年4月15日に私が撮ったものです。私も近所でこの光景を見たとき、この世ならざる光景のように感じました。

西行の最期については日経の記事のなかからの引用ですが、宗教学者の山折哲雄氏は30年来「西行断食往生説」を唱えています。

山の修行僧は時には1週間から10日食を絶つ。 すると仏を幻覚で見る神秘体験が得られることがある。そうした僧は寿命を悟ると食を次第に細らせ、穏やかな最期を迎えることができた。大峰山の苦しい修行に耐えた西行もまた日を計算し、15日の涅槃会に向けて体を整え、1日だけ遅らせたのだと山折氏はみる。

「仏には桜の花をたてまつれわが後の世をひととぶらはば」
私の死後弔ってくれる人があるのなら桜の花を供えてほしい。

西行と清盛

SaigyoKiyo   「西行と清盛」 
   時代を拓いた二人 
   五味文彦著 
    2011年11月新潮選書

西行と平清盛は共に1118年生まれ、西行は23歳で出家し、清盛は10台から出世街道をひた走り権力の中枢に上り詰める。

当時の文書や歴史書を読んだり、NHK大河ドラマを見たりする上で、この時代の登場人物は名前がころころ変わるので大変である。  名前自体も平姓や源姓、藤原姓の人々は似たような名前がいっぱいあって覚えづらい。  源姓でも平家方の武士だったり、兄弟同士や親子で敵味方に分かれて戦ったりすることも多く家系図を参照しながらでないと大変である。

NHKのHPには平清盛をめぐる人事相関図が示されていてわかりやすい。

とは言っても息子の妻に手を出したり、遊女に子を生ませたり、側室が何人もいたりして乱れた内情はわかりにくいほか、時期によって天皇や上皇、法王、何とか院といった名前が変わることも多々ある。  権力のありようも5歳の天皇がいたり出家してからも政治の実権を握っていたり、生みの母が強い影響力を持っていて跡継ぎに口を出したりその後ろに摂関家、源氏平家の武士がついたり離れたりして入り乱れることが多い。

大体このころ政治の乱れ、争いは跡目争いに端を発することがほとんどのようですね。 乱脈を極める朝廷の姻戚関係に、ここぞとばかりに中枢に入り込もうとする貴族や武士が入り乱れて暗躍する。

NHKドラマではもちろん清盛が主役であるが、この本はむしろ西行とその和歌に重点を置いた研究である。  史実では清盛をめぐるものが多いのだが、当時の心理やいきさつを知るには西行はじめ和歌を読み解くほうがよくわかるという面もあるのだろう。

西行は俗名佐藤義徳(のりきよ、憲清、則清、範清とも、TVでは藤木直人が演じている)。 秀郷流武家藤原氏の出自で代々衛府に仕え裕福な家系である。16歳ごろから徳大寺家に仕えたことから生涯を通じてつながりが深い。20歳では北面の武士となり和歌と故実に通じた人物として知られていた。

西行の出家の理由は「西行物語絵巻」にあるように、親しい友人の死であるとされるが、TVでは白河院の愛妾かつ鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子に恋をして失恋したためという「西行の物かたり」のような説もある。
瀬戸内寂聴も待賢門院説を採るが、美福門院説もあるとしている。
五味氏は待賢門院説はありえないとし、法輪寺などで和歌を中心とした交流の中で遁世の意思が強まっていったとだけ記している。

西行は出家後心の赴くままに各地に庵を結び、高野山に入った後も全国をめぐって漂泊の旅を重ねている。 東北から関東中国四国まで諸国をめぐった跡は後年芭蕉が西行を偲んでたどったとも言われる。

この本の中で興味深いと感じたのは、当時の「今様」と「和歌」の対立である。
NHK の 「平 清盛」 のテーマ曲は「今様」でありこの物語の全編を通じて流される通奏低音であように思える。 清盛は白河法皇と今様の歌い手であった白拍子(舞子?)の隠し子であるとされる。 舞子をかくまい後の清盛となる子を産ませるのは清盛の父忠盛であるが、忠盛は和歌を良くした。

鳥羽上皇の子供 崇徳院は和歌をよくし、西行とも意が通じるところがあったが、清盛に和歌の才能は無かった。 TVで松田翔太演じる雅仁親王(後の後白河法皇)は今様を愛し、清盛とは意を通じるところがあった。

貴族と武家の権力抗争と権力の変遷を「和歌」から「今様」へ、形から実力の世界への変化と見ることもできる。 西行と平清盛もその典型としてみてドラマを楽しむのも一つの楽しみ方ではないだろうか?
清盛は1181年その権力の頂点で亡くなっている。 その葬礼の日東方に今様乱舞の声があったという。(百練抄)
栄枯盛衰を唄う今様であったのだろうか。 

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