「西行と清盛」
時代を拓いた二人
五味文彦著
2011年11月新潮選書
西行と平清盛は共に1118年生まれ、西行は23歳で出家し、清盛は10台から出世街道をひた走り権力の中枢に上り詰める。
当時の文書や歴史書を読んだり、NHK大河ドラマを見たりする上で、この時代の登場人物は名前がころころ変わるので大変である。 名前自体も平姓や源姓、藤原姓の人々は似たような名前がいっぱいあって覚えづらい。 源姓でも平家方の武士だったり、兄弟同士や親子で敵味方に分かれて戦ったりすることも多く家系図を参照しながらでないと大変である。
NHKのHPには平清盛をめぐる人事相関図が示されていてわかりやすい。
とは言っても息子の妻に手を出したり、遊女に子を生ませたり、側室が何人もいたりして乱れた内情はわかりにくいほか、時期によって天皇や上皇、法王、何とか院といった名前が変わることも多々ある。 権力のありようも5歳の天皇がいたり出家してからも政治の実権を握っていたり、生みの母が強い影響力を持っていて跡継ぎに口を出したりその後ろに摂関家、源氏平家の武士がついたり離れたりして入り乱れることが多い。
大体このころ政治の乱れ、争いは跡目争いに端を発することがほとんどのようですね。 乱脈を極める朝廷の姻戚関係に、ここぞとばかりに中枢に入り込もうとする貴族や武士が入り乱れて暗躍する。
NHKドラマではもちろん清盛が主役であるが、この本はむしろ西行とその和歌に重点を置いた研究である。 史実では清盛をめぐるものが多いのだが、当時の心理やいきさつを知るには西行はじめ和歌を読み解くほうがよくわかるという面もあるのだろう。
西行は俗名佐藤義徳(のりきよ、憲清、則清、範清とも、TVでは藤木直人が演じている)。 秀郷流武家藤原氏の出自で代々衛府に仕え裕福な家系である。16歳ごろから徳大寺家に仕えたことから生涯を通じてつながりが深い。20歳では北面の武士となり和歌と故実に通じた人物として知られていた。
西行の出家の理由は「西行物語絵巻」にあるように、親しい友人の死であるとされるが、TVでは白河院の愛妾かつ鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子に恋をして失恋したためという「西行の物かたり」のような説もある。
瀬戸内寂聴も待賢門院説を採るが、美福門院説もあるとしている。
五味氏は待賢門院説はありえないとし、法輪寺などで和歌を中心とした交流の中で遁世の意思が強まっていったとだけ記している。
西行は出家後心の赴くままに各地に庵を結び、高野山に入った後も全国をめぐって漂泊の旅を重ねている。 東北から関東中国四国まで諸国をめぐった跡は後年芭蕉が西行を偲んでたどったとも言われる。
この本の中で興味深いと感じたのは、当時の「今様」と「和歌」の対立である。
NHK の 「平 清盛」 のテーマ曲は「今様」でありこの物語の全編を通じて流される通奏低音であように思える。 清盛は白河法皇と今様の歌い手であった白拍子(舞子?)の隠し子であるとされる。 舞子をかくまい後の清盛となる子を産ませるのは清盛の父忠盛であるが、忠盛は和歌を良くした。
鳥羽上皇の子供 崇徳院は和歌をよくし、西行とも意が通じるところがあったが、清盛に和歌の才能は無かった。 TVで松田翔太演じる雅仁親王(後の後白河法皇)は今様を愛し、清盛とは意を通じるところがあった。
貴族と武家の権力抗争と権力の変遷を「和歌」から「今様」へ、形から実力の世界への変化と見ることもできる。 西行と平清盛もその典型としてみてドラマを楽しむのも一つの楽しみ方ではないだろうか?
清盛は1181年その権力の頂点で亡くなっている。 その葬礼の日東方に今様乱舞の声があったという。(百練抄)
栄枯盛衰を唄う今様であったのだろうか。