江戸時代の日本の人口は約三千万人余りであったといわれています。
当時系統だった統計はほとんど存在しませんので、色々な説がありますがいずれも推計の域を出ません。江戸時代には各藩は藩の経済力、軍事力を他に知られないためにちゃんとした統計を外部に出さなかったという事情もあったようです。

明治になって政府は全国各地の人口及び士族等の割合を正確に把握をする必要に迫られました。 そのために明治になってからの記録は比較的しっかりした数字が残されています。

明治6年(1873年)の人口構成は「明治史要」に記されていて、全人口3330万672人で、そのうち皇族28人、華族2829人、士族154万9568人、卒34万3881人で、全てを合計した比率は5.69%になります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773544/35

また僧侶21万6995人、神職7万6119人、その他5738人で 0.9%。
残りが平民で3110万6514人で全体の 93.41%でした。

では幕末の武士の比率はどうだったかといいますと、「明治史要」では賊軍となった東北諸藩や旧幕府の武士は大量に解雇(身分剥奪)されていますし、戊辰戦争後に陪臣などが多数平民に格下げされていますから実際にはもう少し多い7%前後でなかったかといわれています。

ただしこの数字は女子供を含んだ数字ですので成人男性としての武士の人口は約45万人、人口比1.5%程度ではなかったかと想像されます。

以下は磯田道史氏が「殿様の通信簿」の中の、延岡藩内藤家長についての記述の一部からの一部引用です。

「藩制一覧」という資料では明治二年当時の鹿児島藩島津氏の武士人口は、士族4万3千戸、足軽以下十万7千7百38戸とあります。 この数は異常で、島津が兵農分離を曖昧にしていたために、いざとなれば普段は農民であっても、兵士として戦争に参加する「郷士」が非常に多かったことを意味します。

当時の延岡藩は外様の島津に対する出城の意味もあり、譜代大名の内藤氏がいましたが、延岡藩の士族比率は全人口の3.44%だったといいます。
ところがその南の高鍋藩(秋月氏)では士族比率が 18%、佐土原藩(島津氏)は35%。 飫肥藩(伊東氏)は20%。 宮崎県内の鹿児島藩では32%であったといいます。 (「宮崎県の歴史」日高次吉)

一方の延岡内藤氏は、士族490戸に卒族(足軽)940戸、合わせても1500人ほどに過ぎませんでした。  このために延岡藩はいざ島津とことを構えるには余りにも兵力が過小で、島津15万の兵力の前にはひとたまりもなかったのではないかと磯田氏は同情しています。

土佐の郷士、薩摩の郷士、そして長州の騎兵隊、仙台の伊達と形は違っても外様大名は幕府の目が届かないことをいいことに、独自の兵力を蓄えいざという時のために備えていました。 そのことが明治維新の原動力となったことは確かでしょう。 そしてその数が明治維新後の士族の待遇に大きな差を生みました。

明治に士族制度ができた時に、日本の士族の10人に1人は鹿児島藩士であったといわれます。(落合弘樹「西郷隆盛と士族」) 旧幕府側に付いた元武士たちがどのような気持ちで士族制度を見ていたか、その気分が少しわかる気がします。